ガレージの中

死にそこなったが雑草の真実

ペーパームーン

孤独を孤独と知るのがある程度大きく育ってしまってからだったので一回一回が落ち着くまでの苦しみが普通の人の比ではないような気がする。

セックスなんて悪いことでしょう。こんないらないガキが産み落とされてしまうのだから。誕生日は呪うべきものだ。これが苦しみの始まりであったことには自我が芽生えて程なくして気がつく。せっかく父が父の父たちを説得して子供生まれなくてもいい許可もらったのに、タイミング悪く自分は出来て生まれてしまった。

兄弟がいたらまだ違ったかもしれない。兄弟がいたら、こんなに1人遊びが上手にならなくて済んだだろう。もっと滑らかに人と関われただろう。しかし母はもうひとり産める身体ではなかった。そのことに関しては責めようがない。しかしそうならそうで自分のことも産んで欲しくなかったな。とたまに思うくらいは許してほしい。親子関係とは相互に作用する呪いだ。どちらかが無傷ということはあり得ない。間に挟むもの(人)が何もなかったという点においてもやはり兄弟は必要だったなと今振りかえってみてしみじみ思う。

 


愛情に飢えるのと、愛情に悪酔いして拒むのと、どちらが苦しいかなんていうのは決められることではないのはわかる。食事が与えられないのと与えられた食事を陰で全部吐くのとの違いだと思うが、どっちみち栄養失調になる。そして人間としての罪の重さは明らかに後者なのだろう。

自分はその後者であった。それを贅沢な悩みと言われることが自分の苦しみである。自分の感情のたいていは罪に値するのだと、無意識に思ってしまう。

 


愛情をかけられたり優しくされたり大事にされるとその分行動や言動を縛られたり期待されたりするような気がする。実際何パーセントの確率で相手がそう思っているのかはわかるわけないので結局は全て自分のものの捉えようで、自分の受け止め方を変えないと一生苦しいままだと知っている。というかちゃんと受け止められてすらいないかもしれないのでまずは「ちゃんと受け止める」という次元に行き着くところからか?

誰かに助けてほしかったりもしたのかもしれないけれど、自分が変わらないといけないことに気づいていた。誰のせいにもできないのが悔しくて悲しい。それこそ兄弟がいたら「誰かのせい」に日常的にできただろう。虐められるか、自分より出来が良いか悪いか、ぐれるか、何でもいい。自分よりも親の目を惹いておいてほしかった。

生に対する正当な劣等感をわかりやすく抱けたなら、それをバネに案外ものすごいパワフルに生きていけたかもしれない。少なくとも絵なんて描いてない。

大体のことに気力がなくなった今の自分は、諦念と開き直りで息をしている。井戸の底から、ああ、こりゃあもう無理だなあ、とへらへら笑っている。ただ、人生捨ててかかっている人間の地獄の底から生まれる力だけを信じている。孤独に克つには、それを覆い被せる程の強さがあればいいでしょう。もうその「強さ」の種類や意味などこの際何だってよい。

 

 

 

人は人以外で癒せるかを試すことだけが今の自分の拙い希望である。